アポスティーユ 在外公館
アポスティーユっていうのは、日本の外務省で頂くものなのだとおもうのですが、
次の著作権切れの伊丹万作の文章を読みながら考えてみることにしました!
二流どころの寿座という小屋では「ジゴマ」の写真を見た。小学校の五年か六年のときである。
駒田好洋という人がこの写真を持つてきて、自分で説明をした。「すこぶる非常に」という言葉をいやになるほどたくさん使用したのを覚えているが、子供心にもこれはわるい趣味だと思つた。
それからのちに「ジゴマ」の本を読み、ポーリン探偵は我らの英雄になつた。
ポーリン探偵はその四角なひたいの上半を覆いかくすような髪のわけ方をしており、得意なときにも困つた時にも人さし指をとがつたあごに持つて行つて、いかにも思慮ぶかそうに上眼を使つて考えた。
ポーリン探偵の助手はニック・カーターである。この人はポーリン探偵より背が高く、やや柔和そうにみえた。我々はポーリン探偵の笑い顔を想像することは困難であつたが、ニック・カーターはすぐに笑つたりじようだんをいつたりしそうであつた。
新馬鹿大将というのと薄馬鹿大将というのと二様の名まえもこの小屋で覚えたが、この両名が別人であつたか、それとも同じ人であつたかいまだに疑問である。
のちに中学校へはいつたとき、運動会の楽隊の稽古をしていた上級生から新馬鹿マーチという名まえを教わつた。なるほど耳になじみのあるその曲を聞くと、私の頭の中で条件反射が行われ、新馬鹿大将の行動があざやかに見えるような気がした。
そのころの弁士の口調を思い出して見ると、ただ新馬鹿大将とはいわないで、新馬鹿大将アンドリューとつづけて呼んでいたようである。
やはり小屋で見た写真で、非常に美しい天然色映画を一本思い出す。
深い深い海の底へ主人公が泳いで行つて、竜宮のような別世界へ到達するのであるが、到達してからのちのできごとについては一つも覚えていない。
ただ深い色をした水の底へ、身をさかさまにした主人公がゆつくりゆつくり泳ぎくだつて行くところだけが不思議に鮮明な画像となつて残つている。
日本の新派の写真も二種類ばかり思い出すことができるが、題名も筋もわからないから人に伝えることはできない。
ただそのうちの一本の写真がラストに近づいたとき、弁士がカメラの位置変更についてあらかじめ観客の注意をうながし、急に視野の範囲が変るが、場面は同一場面で、動作は連続したものであるから誤解のないようにしてもらいたいとくどくどと断つたことを覚えている。
はたして弁士の言葉どおりカットが変るといままで岡の一部を背景にした全身の芝居であつたのが、今度は大ロングになつて岡の全景が現われ、芝居は岡の上下をふくむ範囲において行われるようになつた。
弁士がくどくどと断つたことからおして考えると、その当時はまだこんなふうに芝居の途中でカットの変ることは珍しかつたものとしなければならぬ。
次に市の一流劇場新栄座において見たものをあげると、一番印象の深かつたものは「ユニバース」とかいう変なもので、山崎街道は夕立の光景と弁士がどなると雲が恐ろしい勢いで動き出すのであるがこれは実演と実写と本水を同時に使用したようなものであつたらしいが、どうもよくわからない。
もの言う活動大写真というのも来た。西洋の写真と一緒に怪物のうなり声のようなものがどこかで聞えたように思つたらそれでおしまいであつた。
旧劇では「柳生の二蓋笠」というのをここで見た。ここで見た西洋の写真についてはいつこうに憶えていないが、赤い鶏のマークだけはどうもこの小屋と離して考えられないのが不思議である。常設館ができてのちにも、松之助の「忠臣蔵」と「曽我兄弟」だけはこの小屋で見た。特別興行という意味合のものか、そこらはよくわからない。
これものちの話であるが中学五年のとき実川延一郎が実演でこの小屋にきたので見に行つた。出しものは「肥後の駒下駄」と、「お染久松」、「土蜘蛛」、「輝虎配膳」などで、延一郎は駒平、お染とでつちの早変り、これは人形振り、「輝虎配膳」は他の役者の出しもので延一郎は出なかつた。
この時分の延一郎は眼のよく光る綺麗な男であつたが、自分が使うようになつた延一郎はしわくちやのじいさんで、眼もしよぼしよぼしていた。
そして会うたびに懐しそうに手を握つたり、こちらの肩へ手をかけたりしては「また使うておくれやすや」と言う男であつた。トーキーになつてからはわずかな語数のせりふでもまちがえて何べんとなくやりなおさねばならなかつた。そしてやつとすむと、すぐにやつて来てこちらの膝へもたれ込むようにして「何でどすやろ、何でどすやろ」とまちがえたことをさも心外そうにそう言うのであつた。そんなときにうつかり「齢のせいだよ」などと言うことはどんなに残酷なことになるかわからないので、私はこの善良な老人を慰める言葉に窮してしまい、黙つてさびしく笑うよりしかたがなかつた。
話を元へもどす。
海外に住んでいるわたしのような場合、たとえば、戸籍謄本にアポスティーユが
必要な場合は、行政書士さんとかのアポスティーユ代行業者に頼めばよいと思うのですが、
無犯罪証明って、確か、日本に本人がいないととれないんでしたっけ???
では、伊丹の文章をさらに読み進めましょう!
常設館は世界館というのが中学一年のときに始めてでき、つづいてその翌年あたり松山館というのもできた。
世界館の開館のときの写真は松之助の「宮本武蔵」であつた。松之助、関根達発、立花貞二郎などという名まえをこの館で覚えた。松山館では山崎長之輔、木下録三郎、沢村四郎五郎、井上正夫、木下八百子などを覚えた。
西洋物では「名馬天馬」などという写真が松山館に現われた。
松山館の弁士はよく「空はオリーブ色に晴れ渡り絶好の飛行びより」と謡うように言つた。オリーブ色の空というのはいまだによくわからない。
井上の写真はわずかであつたが、翻案物の「地獄谷」というのを憶えている。
自分のすまいの関係から中学三年ごろは松山館のほうを多く見、四年五年ごろは世界館のほうを多く見た。五年のころには松之助の似顔絵が上手になり、友だちなどに見せて得意になつていた。
似顔をよく似せるために私は松之助の写真について顔の各部を細かく分析して研究したが、彼の眼が普通の人々よりも大きいとは認められなかつた。彼の顔の中で普通の人よりも大きいのは口だけであつた。ことに下唇の下に鼓の胴を横にしたような形の筋肉の隆起があつたが、これは松之助を他の人と区別する最も著しい特徴であつた。
こんなつまらぬことを研究していたために、当時の私は知能の発育がよほど遅れたようであつた。中学を終えると、すぐに私は家庭の事情で樺太へ行かねばならなくなつた。
その途次東京に寄つたとき、浅草の電気館で「赤輪」という写真を見た。
その時私は活動写真はこんなに明るいものかと思つて驚いた。いなかの館とは映写の光力が違うし、それに写真が新しいから傷んでいない。おまけに田舎は一、二年は遅れて来るから、それだけの日数に相当する発達過程を飛ばして見せられたことにもなる。ことにあの写真はロケーションが多く、それも快晴ばかりで、実に写真全体がアリゾナあたりの太陽に飽和していた感じがある。いま考えてみてもあんな明るい写真はたくさんなかつたような気がするくらいである。
それから函館か小樽かのいずれかで「獣魂」という写真を見た。そしてもみあげ長きフランシス・フォードという役者を覚えた。
樺太に半年ほどいて東京に来た。ちようどそのころブルー・バード映画の全盛時代がきた。
エラ・フォール、メー・マレー、ロン・チャニー、モンロー・サルスベリー、エディー・ポローとかたかなの名まえを覚えるのがいそがしくなつた。
私は絵描きが志望であつたから東京最初の一年は鉄道省につとめたが、やがてそこをよして少年雑誌の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵などをかきながら絵を勉強することにした。
しかし活動はつづいて見ていた。
無犯罪証明を本人が日本で取るしか方法が無いのならば、それに付すアポスティーユも
当然自分が取るしかないことに 笑。
結局、アポスティーユをとるために日本への帰国が必須なのか????